豊島の住民たちには「先祖から受け継いだ大切な島を自分たちの代で『ゴミの島』にしてしまった」という思いがありました。1990年の事件摘発から、産廃撤去を香川県に求めるなどしたものの、県は安全宣言まで出して事件の幕引きを図りました。そんな中で住民が出会ったのが元日弁連会長の中坊公平弁護士でした。

瀬戸内海を守れ

 

中坊弁護士は「子孫のためどこまでおやりになるか?」と迫りました。「何もしなかったらこのままやで」と住民たちは島を挙げて立ち上がります。「香川県が業者に加担し最悪の事態を招いた」として、県の責任と謝罪、原状回復を求めるものでした。当時、産廃の許認可業務は国の機関委任事務、県相手に責任を問うことは、国に責任を問うことを意味しました。「地方からの反乱」と中坊弁護士が述べた所以です。あの手この手の草の根の闘いを展開する中で、島には女性委員会も発足しました。パワーとアイデアが島の闘いを活性化させました。「本能的にきれいなネスト(巣)を次代に伝える闘い」「あかちゃんが泣くように小さな声でも泣き続けますよ」と中坊弁護士は豊島住民の闘いの苦難を表現しています。すべてをさらけ出し、世論の支援を求めるという身を切る闘いでもありました。
闘いの最中、豊島のリーダーで処分地沖合でハマチ養殖をしていた安岐正三さんが突然、家業を廃業しました。国の2億3600万円をかけた現地調査で猛毒のダイオキシンが処分地から見つかり、「消費者に対して加害者になりかねない」と自ら廃業を決めたものでした。

住民たちの苦難と闘いの熱意、世論を動かす 

 豊島の住民たちの必死の闘い

 

豊島の住民たちの必死の闘い、中坊公平弁護士ら13人の弁護団のパワー、環境問題の研究者や科学者の見解、さらには住民たちに寄り添ったマスコミ報道などが世論を動かして行きました。
豊島の闘いでは弁護団は無報酬でした。いち早く問題を告発した地元山陽放送をはじめテレビ・新聞各社も住民たちの闘いの過酷さを報じ、住民の側を向こうとしない「行政の無謬性」を批判し続けました。
それでも公害調停の最終合意までに7年を要し、住民たちの闘いの実費だけでも1億円にのぼりました。さらに、「調停期間中の豊島住民が提供した労力は3億円に相当する」と長嶋俊介鹿児島大学教授が指摘しています。